私の長崎平和祈念式典
長崎平和祈念式典の日に!
~運命のいたずら~夏の光と影:
五年前に書いた私のエッセーだが、
今日の長崎原爆の日にちなみ再録させて頂く。
夏になると思い出すのが、広島・長崎の原爆、
そして終戦のことだ。
長崎県人を両親に持つ私は、終戦の丁度翌年の8月、
母親に連れられ長崎の街を訪れた。
そこに見た光景は今も目に焼きついて離れない。
4才になったばかりの夏のことを。
焼け野原が延々と続いており、唯一舗装された道路に、
米軍の輸送飛行機?が離着陸する。
幼い私には、うわっつ!カッコいいなあ~という、
憧れにも似た感動を覚えたものだ。
▼母の生まれ育ったところが原爆投下の中心地で、
有名な浦上天主堂がある。
高台に、当時としては洒落たレンガ色した洋館建ての
教会が倒壊してしまってはいたが、
在りし日の面影を忍ばせるように残骸をさらしていた。
驚くようなデカイ、教会のドーム屋根の部分や聖人の石像が、
高台の下を流れる川を塞ぐように散乱したさまには―
ギョッとして立ちすくんだ。
階段に私の影が―と、少し動いてみた。
が、その影は動かない。
後で聞いてみたら、それは、ピカドン(原爆)の
百万度といわれる灼熱で影が焼きついたものだという。
▼原爆で、母方の両親(私の祖父母)や長兄など
ほとんどの肉親を亡くした。
母の末の妹は家族と疎開していて難をまぬがれた。
私の一家は、大阪~下関へと生活の拠点を移していて助かった。 ―が、これも又、運命のイタズラだったことがのちに判る。
▼ 当時私の家族は、下関市に住んでいた。
8月6日の広島への原爆投下の後の攻撃目標は、
米国の作戦計画によれば、九州の小倉、そして長崎だった。
2回目の作戦敢行に基地を飛び立った、B―29戦闘爆撃機は、
8月9日午前、関門海峡の上空にさしかかる。
ところが、空は厚い雲に覆われて視界が全く利かないと
いった状況で飛行を続けていたという。
雲が切れ、下に帯状の湾が開けてきた。
搭乗員は、てっきり関門海峡だと思い、爆弾発射装置の
ボタンを押したのだ。
長崎は、小倉の前に間違えて原爆を投下されるという、
まさに運命のいたずらによって、死者14万人の広島に次ぐ、
7万人の死者を出すという、日本にとっても歴史上未曾有の
被害に遭遇することになった。
戦後しばらく経って、この作戦に当ったB-29の
機長本人が語った話に、私は驚愕した。
あの日、関門海峡が晴れていたら私は、
ここ安曇野に暮らしていなかっただろう。
▼戦後63年を経た今、日本が仕掛けた真珠湾への
奇襲攻撃で犠牲者となった米国人当事者と、
規模が違うという広島・長崎の人々との溝は深く、
埋まることはないだろう。
が、これもまた、戦争の悲劇なのだ。
あの夏の、加害者と被害者の光と影を
日本人は忘れてはならない。
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