2016年08月16日

終戦記念日に想う!

終戦記念日に想う!



◆故郷・下関でむかえた終戦の記憶:
 昭和20年8月15日、日本は終戦を迎えた。
私は、山口県の下関という所に生まれ育った。
5歳の夏だった。

 
 
戦争末期には毎日のように昼夜の別なく空襲警報が鳴り、

昼間なら家の縁の下に造った防空壕に、夜なら親からたたき

起こされ、着替えさせられ地区の防空壕へ避難した。

入口には2,3人兵隊服を着た大人が立っていた。

その間から見上げた空には、機体の前後にランプを付けた

飛行機が何機も飛び交っており、三菱彦島造船所から

高射砲が打ち上げられるが、飛行機のうんと下で弾けて

落下してしまう。

下関市内の空は焼夷弾が落とされ真っ赤な空になって見えた。

子どもの目には花火のような光景に映っていた。
 
 終戦の日以後は静かな街に戻った。

しかし、今度は衣食の心配が待っていた。

ほとんどの物資が配給だった時代で、6人家族の家庭には

酷な食糧状態だった。

衣服も配給だったり、くじで当たれば買うという状態だった。

或る時、私が引いたくじが当たりよろこんでいると、

長崎生まれの母から「なんで当たるとね。只じゃなかとよ、

この親不孝者が」などと言って怒られた。

本当に貧乏だった。この時代はどこの家もみな同じだった。

 両親と遠くまで買い出しに行ったことがあった。

食糧統制の時代だったから、その帰りの汽車が検問に

遭うこともあった。

罪に問われるのを避け、闇みで仕入れた物資は―

全部汽車の中に置いて身体だけで逃げ帰るのがしばしばだった。

 ある時、5歳の私がどうやって住まいから10キロも離れた

下関の市街地まで歩いて行ったのかは記憶は定かではないが、

歩いて見て回った焼野原と化した市街地の光景は頭の中に

鮮明に残っている。

終戦記念日に想う!




 長崎原爆の一年後に母に連れられ行った長崎市内の焼野原も

迷子になった門司の街も、はっきり記憶に刻まれて残っている。

好き嫌いの多い、栄養失調でやせ細った私の戦後はー

さまざまな場面で気が遠くなって倒れたりしていた。

子ども心にも過酷な時代だと思っていた。

 あれから71年の今日の平和な日本を人一倍、有り難く

肌で感じて生きてる。


同じカテゴリー(時事批評)の記事画像
あの娘は今、何処にどうして・・・
原爆直後の長崎の街で―完結―
自民歴史的大敗(東京都議選総括)!
安倍よ国民を馬鹿にするな!!
トランプ(米)×安倍晋三(日)会談面白批評
トランプがひっくり返った!
同じカテゴリー(時事批評)の記事
 あの娘は今、何処にどうして・・・ (2018-02-25 15:24)
 原爆直後の長崎の街で―完結― (2017-08-12 14:05)
 自民歴史的大敗(東京都議選総括)! (2017-07-04 16:05)
 安倍よ国民を馬鹿にするな!! (2017-06-21 15:33)
 トランプ(米)×安倍晋三(日)会談面白批評 (2017-02-11 15:51)
 トランプがひっくり返った! (2016-11-10 15:32)

Posted by あづみのきみ麻呂 at 21:19│Comments(2)時事批評
この記事へのコメント
私もあの8月15日前後の出来事は忘れられません。神奈川の山間地に疎開、空襲警報が発令されると同時にB29が頭上に轟音と同時に通過、恐ろしい思い出です。空襲警報が出た夜、平塚市の爆撃で夜空が真っ赤に染まり、怖さを忘れなんと綺麗な空かと眺めた思い出があります。終戦と同時に静かになったのはいいが、人々の生活はたいへんでしたね。決して忘れてはいけない出来事です。平和は守らなくてはと思うこの頃です。
Posted by フリーダムナツ at 2016年08月16日 22:13
フリーダムナツさま:
「心象風景」をお訪ね頂き有難うございました。戦争と平和というテーマにコメント頂いたのは初めてで望外の喜びです。ご理解頂ける方がいらしたと半ば驚いております。戦争体験者が少なくなっている現在、我々が自身の体験に先輩から聞いた話を併せて戦争の悲惨さを伝えていかなくてはならないと思う今日この頃でございます!
Posted by あづみのきみ麻呂 at 2016年08月17日 09:48
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。