2017年08月12日
原爆直後の長崎の街で―完結―
▼戦後日本は戦争のむなしさと悲しい戦争被害を反省し、
二度と戦争を起こさないとの不戦の誓いを
憲法(第9条)の中で謳った。
そのお陰で日本は約70間、一度も戦争を行わなかった。
が、しかし、不戦の誓いは体験者の高齢化とともに
風化しつつあるのも事実だ。
今こそ、その時代に生き、戦争を体験した人々の話しを、
我々が出来る事の一つとして語り継いでいくことが
平和を守り戦争に反対をしていく道で はないか。
****************************
◆昭和19年~20年にかけて、御国のために と、
少年飛行兵に志願 したが終戦となり、志を果たせなかった
中学生の男の子(私の次兄=現在83歳)の戦争被害体験談を
4回連載してきた。
その最終章【4話】である。
◆山口県・下関市在住
深堀 敞(男・86歳<17年現在)原作:
木下俊美編集:
『原爆直後の長崎の街で』
④廃墟と化した長崎市街で~
⇒少年飛行兵に志願、合格していたのに通知が来ないまま
終戦の日を向かえた。玉音放送をラジオで聴いた。
巷では様々な憶測が流れていた。
その一つに、長崎に新型爆弾が落とされ相当の被害が出ている。
長崎には母方の両親兄弟が住んでいる。
身を案じて行って消息を確認するしかないということで、
次兄と父親が行くことになった。原爆から2週間後の事だった。
⇒下関から諫早までは汽車が走っていたが
その先は通行止めになっていた。
諫早の父親の実家へ歩いて着き、翌日、さらに歩いて長崎の街に
着いた街は悲惨を極めていた。
*******************************
叔母のえきさん宅を後に、急ぎ、母の実家・深堀家を訪ねた。
道中には、幾人もの人がやけどを負い、
そこにはハエが止まっているのに払う気力もないのか?
うずくまったままで・・・。
しかし、哀れみをもって見過ごさざるを得なかった。
母の実家もひどく、祖母と孫の四女が、畑で全身やけどを負って即死。
長女が学校動員先の工場で、弟の嫁も畑で亡くなったという。
この時点では、家の中に居て助かった次女と三女は
その後、諫早の親父の実家に移り住んだ。
が、ひと月たらずのうちに高熱に侵され、
頭髪の全てが抜け落ちてしまい、
医者にもかかれず姉妹ともなくなったと、後で分かった。
その時は本当に、この世には神も仏もいないものかと天を恨んだ。
結局、深堀家は、店の品物を仕入れに行っていた
長兄の嫁一人が生き残り、下関に住んでいた母と疎開していた
末の妹は難を免れた。
そして、蚊帳の中に横たわっていた田川八千代さんも
あの日のうちになくなったと、後で聞かされときは、
がく然として、可哀想でならなかった。
当時は、何故?長崎、浦上を狙ったのか?
キリスト教国のアメリカなのに、と恨んだものだ。
しかし、戦争とはそんなものなのだ、
とあきらめざるを得ないのが人間社会かもしれないと、
思うようになった。
― 完 ―
二度と戦争を起こさないとの不戦の誓いを
憲法(第9条)の中で謳った。
そのお陰で日本は約70間、一度も戦争を行わなかった。
が、しかし、不戦の誓いは体験者の高齢化とともに
風化しつつあるのも事実だ。
今こそ、その時代に生き、戦争を体験した人々の話しを、
我々が出来る事の一つとして語り継いでいくことが
平和を守り戦争に反対をしていく道で はないか。
****************************
◆昭和19年~20年にかけて、御国のために と、
少年飛行兵に志願 したが終戦となり、志を果たせなかった
中学生の男の子(私の次兄=現在83歳)の戦争被害体験談を
4回連載してきた。
その最終章【4話】である。
◆山口県・下関市在住
深堀 敞(男・86歳<17年現在)原作:
木下俊美編集:
『原爆直後の長崎の街で』
④廃墟と化した長崎市街で~
⇒少年飛行兵に志願、合格していたのに通知が来ないまま
終戦の日を向かえた。玉音放送をラジオで聴いた。
巷では様々な憶測が流れていた。
その一つに、長崎に新型爆弾が落とされ相当の被害が出ている。
長崎には母方の両親兄弟が住んでいる。
身を案じて行って消息を確認するしかないということで、
次兄と父親が行くことになった。原爆から2週間後の事だった。
⇒下関から諫早までは汽車が走っていたが
その先は通行止めになっていた。
諫早の父親の実家へ歩いて着き、翌日、さらに歩いて長崎の街に
着いた街は悲惨を極めていた。
*******************************
叔母のえきさん宅を後に、急ぎ、母の実家・深堀家を訪ねた。
道中には、幾人もの人がやけどを負い、
そこにはハエが止まっているのに払う気力もないのか?
うずくまったままで・・・。
しかし、哀れみをもって見過ごさざるを得なかった。
母の実家もひどく、祖母と孫の四女が、畑で全身やけどを負って即死。
長女が学校動員先の工場で、弟の嫁も畑で亡くなったという。
この時点では、家の中に居て助かった次女と三女は
その後、諫早の親父の実家に移り住んだ。
が、ひと月たらずのうちに高熱に侵され、
頭髪の全てが抜け落ちてしまい、
医者にもかかれず姉妹ともなくなったと、後で分かった。
その時は本当に、この世には神も仏もいないものかと天を恨んだ。
結局、深堀家は、店の品物を仕入れに行っていた
長兄の嫁一人が生き残り、下関に住んでいた母と疎開していた
末の妹は難を免れた。
そして、蚊帳の中に横たわっていた田川八千代さんも
あの日のうちになくなったと、後で聞かされときは、
がく然として、可哀想でならなかった。
当時は、何故?長崎、浦上を狙ったのか?
キリスト教国のアメリカなのに、と恨んだものだ。
しかし、戦争とはそんなものなのだ、
とあきらめざるを得ないのが人間社会かもしれないと、
思うようになった。
― 完 ―
Posted by あづみのきみ麻呂 at 14:05│Comments(0)
│時事批評