2017年06月12日

我が人生の師―大島渚監督―【完結編】




◆映画『少年』ロケの思い出◆

◎<秋田~青函連絡船>の悲劇!

▼12月28日に秋田を発って青森駅着。

青函連絡船に乗る雪舞い散る厳寒の回廊を 

16人のロケ隊全員が両手に荷物を抱えて、

オーバーではなく必死の思いで連絡船に着いた。

日付は12月29日の0時をまわていた。

ところが、(当時の日本交通公社)で手配してくれた

切符の日付は28日のままだったのだ。

果たして、その後の<函館~札幌~稚内>間の席は

全て28日の切符で席は無いことになったのだ。

私は必死に駆け回り、乗務員と交渉し席の確保に奔走した。

結果は、バラバラにはなったが、

全員の席が確保出来たまさに、奇跡的な結末だった。




▼猛吹雪の中の稚内・野寒布岬のロケから拠点を小樽に置いて、

小樽の丘の上の撮影・札幌ロケを慣行しクランクアップから

東京へ戻ったのである。

※この後にもまたしてもアクシデントが発生したのが、

四国・高知で撮影したワンシーンが、

夕日が沈むのに当時のカメラでは付いていけなくて

撮り直しとなったのである。

私は東京に残ったが、一部スタッフと少年(阿部哲夫君)は

再び高知に行き撮影して戻ってきた。




☞大島渚監督への想い: 

撮影の真近かに居て、酒臭さや息遣い、

怖い形相で怒鳴られたり、優しく声を掛けられたり、

掛値無しに動いた懸命さに心打たれたのだろうか?

クランクアップ後の監督の優しい眼差しが忘られない!

▼2005年にくれた小山明子さんの心優しいハガキの言葉にも、

あの「少年」の思い出は一口では語り切れないとあり、

我が人生の大きな教訓として残っている。

偉大な世界的映画監督と一介のスタッフの間柄ではあったが、

大島さんの周りの主要人物とも

負けないくらい色濃い付き合いだったと勝手に思っている!




  

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2017年06月11日

我が人生の師―大島渚監督―【Ⅲ】




【大島渚・年譜】:        
生年月日1932年3月31日
没年月日2013年1月15日(満80歳没)
出生地岡山県玉野市
死没地神奈川県藤沢市
職 業映画監督、脚本家、演出家など
ジャンル映画、テレビなど
活動期間1959年― 1999年
配偶者小山明子 (1960年― 2013年)
著名な家族大島瑛子 (妹)


【第二章】映画「少年」の思い出:


◆アートシアターギルドの一千万円映画で、

経費を掛けない策の一つで、創造社所属の渡辺文雄、

監督の妻で、小山明子、孤児院から探してきた阿部哲夫という少年役、

そして―、スタッフ(私、木下)の当時、2歳10ヶ月の息子・剛志がチビ役だった。

セット撮影はなく、全国オールロケという節約ぶりだった。


▼全国ロケ旅で訪ねた所:

*第一次ロケ:高知県高知市・広島県尾道市・岡山県倉敷市・福岡県北九州市・

松江城(島根県松江市)・城崎温泉(兵庫県城崎町(現・豊岡市))・兵庫県竹野町(現・豊岡市)

・天橋立(京都府宮津市)・福井県福井市・群馬県高崎市・山形県山形市

・秋田県秋田市(一旦、東京に戻る)。

*第二次ロケ:北海道後志・歌志内・宗谷岬(北海道稚内市)・北海道小樽市・札幌市


▼昭和43(1968)年10月、四国・高知からクランクイン。

高知市内周辺ロケ後移動。今治から広島~福山に渡る船が嵐で欠航。

一晩、今治の宿に泊まることになった。

▼恒例のように、宿の前の飲み屋で酒盛り。

遅くなっても帰らないので、宿の人からクレームが入ってきたので、

「帰ってもらえないか」と連れ戻しにいくと、

監督がものすごい形相で「お前なんか帰れ―っ!」と怒鳴り飛ばされた。

宿に戻って途方にくれていたところ、小山さんが優しくなだめてくれた。

▼あの時、子供を連れて引き揚げていたら「少年」は

最初から撮り直しになっていただろう。

戸畑~若松~松江とロケは続いた。

天候やアクシデントが重なり、ロケ費用<交通費>が

島根県・松江で底を突いてしまった。

仕方なく、小山さんと大島監督に恐る恐る金を無心したところ

笑顔で出してくれたのだった。

▼福井~城崎温泉とロケを続け~一旦東京へ戻って、

第二次ロケ<東北~北海道稚内>が12月スタートすることになる。

※第二次ロケ旅に続く~

  

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2017年06月08日

我が人生の師・大島渚監督【Ⅱ】




【第一章】② 映画の世界へ;
 
◆1969(昭和44)年の夏、意を決して妻子共々上京、

大島渚プロダクション「創造社」の

映画製作に関わることになったのである。

▼上京後の最初の映画は「新宿泥棒日記」だったが、

これがまた前代未聞の奇妙な撮影手法が

取られるというものだった。

映画製作に付き物の筈のシナリオはなく、

監督と主要スタッフが撮影前日に脚本会議なるものを行い

撮影の段取りのようなメモ紙が用意されるのだ。

それをスタッフが読み取って段取りを決めるという厄介な

製作スタイルだったから、スタッフは戸惑うばかりだった。

▼撮影は新宿の街中で、夜間撮影が主体だった。

紀伊国屋の田辺茂一氏が語る新宿昔噺に、

当時の社会現象を絡ませるストリーだった?ようで、

当時、一世風靡したアングラ演劇の雄・唐十郎率いる―

「状況劇場」が新宿・花園神社に構えた

「紅テント」が主要舞台となった。いづれにしても

奇妙奇天烈な理解し難い映画製作だったことと、

撮影スタイルには閉口したが、

絶対的に面白かったことが鮮明に頭に残っている。

【第一章】③ 大島 渚監督の素顔


◆顔は天然パーマの外人さんのような風貌に

立居振舞は内股歩きのオカマ風だった。

だから、「あの人ホモだよ」などと陰口が聞かれたのも

本当の話しだ。

しかし、その姿・形からは想像し難い程、

人一倍大きな声と怒鳴る時の鬼のような形相に先ず驚く!

撮影スタートの掛け声は、東映系は「レイディー・スタート!」だが、

松竹系は『ヨーイ;ハーイ』で、

松竹出身の大島監督は「ヨ~イ・・・・ウハ~ア~イ!」と

腹の中から絞り出すような独特の掛け声だった。

*酒豪中の酒豪*

▼映画「少年」のロケの事。

酒豪の地、高知の人と世を徹して、

飲み負かしたと自慢気に話していた。

4ヶ月のロケ中毎日、終われば酒盛りの日々だった。

一日たりとも休肝日はなかった。 

北海道・札幌の雪の中のロケでは、

一升瓶片手に撮影をやっていた。

晩年の闘病生活は明らかに酒豪故のつけが回ったのが原因だと

今も思っている。



  

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2017年06月07日

我が人生の師―大島渚監督―



▲撮影中の大島渚監督


【第一章】:大島渚監督との出会い;

◆1968(昭和43)年、関西の三人の大学生が唄った

♪帰ってきたヨッパライが大ヒット、一世風靡した。

世は60年安保から70年安保闘争にかけて新左翼と言われる

大学生や知識人らが本気で革命を考えていたような時代だった。

▼京都大学法学部に入学、全学連・府学連委員長だった大島渚は卒業後、

松竹映画に就職。

篠田正浩や吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として

知られるようになった。

監督デビュー後の何作目かに選んだのが「帰ってきたヨッパライ」だった。

▼当時、私は役者を目指して上京したが、挫折して故郷・下関に舞い戻り、

車のセールスマンの

傍ら新劇の劇団を立ち上げ活動していた。

そんな時、日本列島最西端の港町・下関に、

劇団代表が関わりのあった大島渚監督とのコネから

松竹映画製作の映画「帰ってきたヨッパライ」の

ロケ隊が来ることになったのである。


松竹を離れ独立プロ「創造社」を結成していた大島渚監督かぶれの劇団代表が

率いる劇団名も「劇団・創造」だった。

そんな所以から劇団挙げてのお手伝いをしたのだった。

▼固いイメージ一色の大島監督とはとても結びつかない三人の大学生だった。

そのファッションはと言えば、ド派手な色のマント型コートに女の子が持つような

バスケットを手に歩くという立ち居振る舞いは

田舎者には度肝を抜かれるには充分過ぎるものだった。

田舎・下関はまさに、大騒ぎとなったものである。

一世風靡した「ザ・フォーク・クルセーダス」との出会いだった。

▼高校の同級生で、親友の故・小池要之助君(後に、TV映画の監督)と

二人が献身的にお手伝いをしたことがこの後、二人で再び上京し、

映画の世界へ転身するきっかけとなったのである。

余談だが、この映画は松竹映画で公開されたが、

難解だとして一週間で打ち切りとなった。


◆続く~:
 
【第二章】映画の世界へ;
  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 12:16Comments(0)フォト・エッセー

2017年06月01日

ベーカリーカフェ「サン・トノーレ」開店10周年!

サン・トレーノ店主夫妻
◆ベーカリーカフェ『サン・トレーノ』:
 
 ~安曇野市穂高有明8148-3~
 
 ~電話:0263-83-6428~
 
 ~定休日:月曜日・第三火曜日~

☞お蔭さまで開店10周年を迎えました!!
 
 ※6/6(火)~6/11(日)【記念セール】です。
  
 ―『ご来店、お待ちしております。』と店主夫妻―




◆開店10周年を迎えた「サン・トレーノ」で―

~今日はランチしました、いつもの「トーストランチ」です~

―うううううううう・・・・・・・・うんま~い!
  
 ~&;超安~い!540円ですよ~



  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 16:35Comments(0)お店・施設

2017年05月29日

35回「野麦峠まつり」山行き始末記!


▲第35回「野麦峠まつり」山行き入山地点

◆5月28日、「第35回野麦峠まつり」参加紀行!
   ~記念山行「工女と歩く1・3km」~
☞明治~大正時代、信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の
若い娘達が通った野麦街道の難所(旧奈川村(松本市)
難所、標高1672mの野麦峠で行われる「野麦峠まつり」に
参加してきました。
=実録映画=1975(昭和55)年、山本薩夫監督・大竹しのぶ
主演「「あゝ野麦峠」は当時、反響を呼びました!
***************************

◆つづら折りの山岳道路〔R158号線〕~狭い隧道続きの~
R26号を経て、まつり参加者の集合場所「川浦歴史の里」へ。
車を置いて更に、シャトルバスで旧野麦峠入山口(わさび沢)
へと着きました。
工女山行き

▼10:50~工女役の少女の行列に付いて記念山行がスタート。
未整備の山道は雨で歩きにくい上に、<相棒は健脚なれど―、
年寄りの私の足では当然の結果で>後には数十人続くことに
なったので、先に行ってもらうことにした結果、一番最後に
なってしまった。何回も休憩、水分を補給しながらの山行きで、

☞結局、本体とは30分遅れの到着となりました(涙)

ベテラン山岳ガイドさん

▼何が幸いするやら―と思わせてくれたのは―
最終山行き者になった為、この山行きのガイドさんが一緒に、
実に優しく、丁寧な励ましの言葉とともに山の知識を伝えて
くれながら登って頂いたお蔭で、頂上に夢が待っているとの
希望の灯を灯らせてくれることになった、感謝に堪えない!
~お歳を尋ねると、私より4歳年上の79歳と聞き驚いた~
人間的にも、健脚ぶりも何倍も優れたお人であることを痛感
した次第!

▼ガイドさんが「もうすぐ夢のようなことに遭遇しますよ」と、
言ってくれた事が頂上に待っていました!
青い空に聳える冠雪の乗鞍岳です。
乗鞍岳
  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 16:51Comments(0)旅行・観光

2017年05月17日

よそ見わき見気まま旅―第44回「中山道・下諏訪」―


▲信州・下諏訪町の万治の石仏:

◆故郷の友・中村佑君の旅紀行「よそ見わき見気まま旅」:
      第44回  中山道(下諏訪)
      ―下諏訪 万治の石仏―
 
 伊那から下諏訪宿まで凡そ9里。
中山道と甲州街道が合流する下諏訪宿は、
諏訪大社の名声もさることながら、標高1500mの難所、
和田峠を目指す人々にとっては心の準備を整える場所
でもありました。
諏訪大社の神前に頭を垂れ、無事な峠越えを願った
ことでしょう。
 その諏訪大社のすぐ傍に、不思議な姿の石仏が
鎮座しています。万治の石仏といいます。
恐らくこのような形の石仏は、
他に例を見ないものと思われます。
 かの岡本太郎画伯がこの地を訪れ、ユニークな石仏を
絶賛して以来、多くの人達がお参りをするようになりました。
 そのユニークな姿の石仏は、
万治年間に造られた石仏なので万治の石仏と呼ばれています。
万治は江戸時代の前期の年号ですが、
僅か2年余りの短い期間でした。
 古くは、年号の制定権は天皇にありました。
従って、吉兆や災異によってしばしば年号は改められました。
短い年では1年で変わった年号もあります。
 それでは万治年間にはどのような大事件があったのでしょう。
調べてみるとありました。万治の大火です。
江戸の家々の数千戸が灰になりました。
武家屋敷も数百戸が被害を受けました。
 天皇は躊躇うことなく年号を万治から寛文に改変しました。
  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 15:58Comments(0)フォトエッセーbyTasuku・T

2017年02月19日

よそ見わき見気まま旅―第42回―「中山道(妻籠)」



▲妻籠宿高札場前の水車小屋:


◆第42回「中山道(妻籠):


 
歴史的建造物群保存地域にいち早く認定された、

歴史の香り豊かな町並みが多くの人を惹きつける、

木曽路を代表する宿場町の一つです。
 
 驚くのは、通りを歩く人達の多くが外国からの旅行者であることです。

気ままな旅人がお世話になった宿の夕食時間、

ずらりと並んだ外国からの旅人に混じって日本人は私一人だけでした。

別の場所を準備しましょうか、と宿の方に気を遣わせてしまったほどです。
 
 時代劇の撮影場所にも似合う通りを、赤やピンクのヤッケに

大きなリュックを背負った碧眼の紳士淑女が、

風の匂いすら聞き漏らさない真剣さで、

舐めるように通りを眺めて歩く姿は、非常に微笑ましく感じられます。
 
 朝の早い通りには、木曽川から次々に霧が流れ込み、

まだ明かりが点ったままの店先の行燈がその霧に滲んで、

通りを行く人の姿がソフトフォーカスの影になります。
 
 流れる霧の僅かな隙間から覗く、

覆いかぶさって来るような木曾の山々が、

『夜明け前』の出だしに続く一節~

「一筋の街道は深い森林地帯を貫いていた」の文章を想起させます。

 (中村 佑)    2017年2月11日


  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 15:20Comments(0)フォトエッセーbyTasuku・T

2017年02月14日

聖バレンタインデーの日に・・・




#聖バレンタインデーの日に・・・

☆わたしの母ちゃんは明治33(1900)年、
長崎市街の浦上というカトリック信者の多い所で生まれた、
敬虔(けいけん)な?クリスチャンだった。
しかし、神は非情にも、母ちゃんの親兄弟のほとんどを
原爆で奪ってしまった。

   ###     ###

☆わたしは、母ちゃんが42歳の時の子で、
兄姉とは9~12歳も年が離れている。 
どうやら間違えて出来た、いわゆる恥かきっ子らしい。
だから、物心ついた頃には、母ちゃんは婆ちゃんのようだった。
よく、「お前は橋の下で、みかん箱の中に入れて
捨てられいたのを拾ってきたったい」と言って私をからかった。

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☆生めよ増やせよの軍国時代だったから
生んだ子が男3、女3の6人。
その中、二人は私が生まれる前に亡くなっていた。
親兄弟から自分の子どもの死まで看取って戦前・戦後を
生き抜いた母ちゃん。

☆悲しかっただろうなあ~と、今、親となってみて分かる。
体は坂道ならゴロゴロと転がり落ちそうなデブッチョで、
オッパイはでかいヘチマのようだった。
銭湯の帰り道、辺りかまわず「屁」を垂れる、
その音のすごさに、驚いてたじろぐ私に―
「なんもビックリするこちゃなか」と、
涼しい顔していた。

畑仕事で、重い「肥え桶」を抱えてころんで、
悪くした足を引きずって家路についた日のこと
などが懐かしい。

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☆母ちゃんとはいつも一緒だった。寝るのも同じ床だったし、
小・五まで銭湯では母ちゃんと女湯に入っていた。
ある日、同じ組の女の子とバッタリ。
途端に恥ずかしくなって、
男湯に逃げ込んで以来、女湯には入ることはなかった。
男に目覚めた記念の日としておこう。

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☆その母ちゃんは、平成4(92)年の―
2月14日のバレンタインデーの日に92歳で、
天国に召されて逝った。
今年<平成26年>は亡くなって22年が経過したが、
一周忌の時、甥っ子の結婚式の方を選んだのが
チョット心残りになっている。
▲追記だが、その甥っ子も十数年前に逝ってしまった。
奥さんと子どもを残して・・・、早死にだった。


  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 16:25Comments(0)思い出噺

2017年02月11日

トランプ(米)×安倍晋三(日)会談面白批評



◆トランプ米大統領×安倍晋三首相会談inアメリカ:
  ―あづみのきみ麻呂の面白批評!―

◆世界から注目が集まる米トランプ大統領と
 日本の安倍晋三首相の首脳会談が2月10日、
 アメリカでが行われた。
 共同記者会見では予想外の親密ぶりが視て取れた。
 メディアも一様に平穏な様子だと伝えた。
▲色々と賛否が分かれる両首脳だが、
果たして二人の相性はどうなのか?
➡一時、日本で一世風靡した細木数子さんの「六星仙術」
 に当てはめて診てみた。



☞トランプ大統領:1946(S・21)年6月14日生まれ(70歳)=
 =運命星:水星人(+陽)=
 【性格】:「財運抜群だが、クールな利己主義者」。
 ★今年の運勢は、〔財政〕という12年周期の中の最高運の
  年に当たっている。

☞安倍晋三首相:1954(S・29)年9月21日生まれ(63歳)=
 =運命星:金星人(+陽)=
 【性格】:「明るく行動的な“自由主義者”」※
 ※あの戦国時代の英雄・織田信長も”金星人”だった
  ように安倍首相も性格はソックリで、
  せっかちな自由主義者。
  よく言えば現代的なセンスにあふれている。
 ~と言えば申し分ないが、人間的な軽さがつきまとうのが欠点!
 ★今年の運勢は、(目標が)〔達成〕されるこれまた
  最高運期にある。

◆トランプ×安倍の相性は;◎が最高とすると、
 〇という相性の良さだ。
~こういうことを診てみると;
―今年の二人の出会いは最高だったと言える。
 しかし、トランプの性格(非常に利己的でクールな性格で、
人生を常に醒めた目で見るところがあり、
自分は自分と割り切って見る独善性)から、
安倍の軽重な言動には容易には乗っていかないのではないかと
考える。
 ~果たして今後の日米関係は如何相成るか?~
  ―神のみぞ知るというところか?



  

Posted by あづみのきみ麻呂 at 15:51Comments(0)時事批評